宗教と関わることが、あなたの人生を豊かにしているのであれば、特に問題はありません。おそらく、信仰心のある人は、感謝する心があり、礼節をわきまえた人であり、先祖、家族、そして他者を大切にすることができる人であり、信じることを実践している立派な人だと思います。このような生き方をしている人は、神仏や大自然に対し、畏怖や畏敬の念を持ち、自分自身が、森羅万象を構成する一つの小さな要素に過ぎない事を知り、その無力感や謙虚さから、因果応報を受け入れる覚悟を持っていると思います。さらに、前世があり、死後の世界があることを信じ、輪廻転生を受け入れている人であれば、今生での人生の課題を探求し、等身大の自分を愛し、徳積みに励まれ、人間として崇高な生活を送られていると思います。
安定した生活環境の中で育ち、高い教育水準の中で信仰心を育まれた人は、自然な形での宗教との関りが身についており、何事もなく普通に生まれ、何事もなく普通に育ち、何事もない普通の生活の中の一つの習慣として、上手く機能しているのだと思います。しかし、幼少期から多くの困難を抱え、多くの試練を味わってきた人にとっては、不幸や苦しみの原因について模索し、ぶつけどころのない憤りの中に明るい未来を想像することなどできず、とても楽観的にふるまうことなどできない深刻な状態の中からの、救いを求めての信仰であり、現実を良くしたいための宗教との関りであると思われます。
いずれの状況であっても、世界中の多くの人は、生まれながらにして、何らかの宗教との関わりの中で生きていると思います。ただしそれはシステムであり、時の権力者によって戦争に利用されたり、一部の人のお金儲けに利用されたりすることもあるのです。それにも関わらず、ほとんどの人は、宗教の本質について理解することもなく、特別に勉強することもなく、慣習という漠然とした流れの中で、教えられた通りの儀式に従い、安堵し、なんとなくわかったようなそぶりをし、只々でたらめなことをしているのではないでしょうか。
とりわけ日本人の場合、神道と仏教の両方に二股をかけた状態の人が多く、神社に行って柏手を打つこともあり、寺では僧侶の読経を聞くこともあり、更にクリスマスにはイエスの生誕を祝ったりもしています。または、それ以外の宗教に関わっている人もいるかもしれません。特定の宗教に深く関わっている一部の人を除けば、何らかの宗教活動を行っているわけでもなく、恒例行事として行われるイベント程度の認識で、大した重みがある訳でもなく、それほどの真剣みがある訳でもない人がほとんどで、神仏や大自然を通じ、自分自身と対峙したり、教義に従うといった感覚もあまりないかもしれません。
しかしながら、世界中にはあらゆる種類の宗教が現存しており、厳格な戒律に則った生き方をしている人もいるのです。人間の生活において、宗教との関りは外すことのできない重要な思想体系であり、このことから避けることはできません。人間にとって人生は無常であり、自分の力の限界を感じたときに、宗教は上手く機能するように思います。思い通りにならないことの原因を求め、なぜそうなったのかを理解したいと思った時、その理由を見いだすことは難しく、納得できないことはよくあることです。また、私たちは明日が見えない極めて不確実な環境の中に暮らしています。何の予告もなく、突然に襲い掛かってくる不幸に翻弄されるかもしれないという現実に怯え、そのことについて無力であり、適切な解決策を得ることすらできない場合があることを知っています。そんな時、宗教はいとも簡単に因果を説き、具体的に教義を示し、そして信仰の意味を教えてくれるのです。
このような状況の中で、近年では多くのことが研究され、怪奇現象や奇跡のメカニズムについて科学的に説明できることも出てきており、エビデンスに基づく裏付けを示すことが当たり前に求められるようになってきました。皆がスマートフォンを持つ時代となり、リアルタイムに情報を収集することもできるようになっています。にわか知識でものを言い、理屈や詭弁で固めた人が多いような気がします。心に重点を置かないため、謝罪や和解をすることを知らず、独善的で我欲が強く、人をいじめることで自分の立場を守り、権利ばかりを主張し、お金を得ることを最優先に考え、お金持ちになれば幸せになれると考えている人がほとんどではないでしょうか。
確かに、お金持ちになれば、ほとんどのことが解決できる世の中ではあると思います。お金の力で自分の意思を通すことができるのは事実であり、お金の力で曲げたことであっても、その報酬に相手が納得するか、法的な正当性が得られれば、誰にも文句を言われることはありません。お金さえあれば、生老病死もコントロールできると思っている人もいるかもしれません。しかし人間である以上、「自分の思い通りにならないこと」は誰にでも起こりうる事態であり、避けられない現実として受け入れなければならないことではないでしょうか。そしてこのような世界で生活していること自体に、違和感を感じている人もいるかもしれません。
もちろん、実際にはそれだけではありません。身近には、もっともっと多くの悩みや苦しみが存在しています。精神や肉体の苦しみは、日常生活の中で誰もが突然に抱える可能性があり、時間をかけても、努力をしても、またはお金を使っても解決できないことも多々あります。大した問題でなければよいのですが、本当に耐えがたい悩みや苦しみに見舞われた場合、一体どうしたら良いのでしょうか。誰かに相談することにより、気持ちの整理をすることができたり、社会のシステムの中に解決方法が確立していることであればよいのですが、どうしても解決できない、どうしても耐えられない悩みや苦しみがあるのであれば、神仏や精神世界に頼るしか方法が無いのです。
宗教について考えた時、私が生まれ育った環境は、極めて平凡な一般家庭であり、日本人の標準的な生活に則したものであったと思います。家には神棚があり、仏壇があり、世間常識から外れない程度の信仰心を持った家族に囲まれて、日本人として当たり前の宗教的儀礼を行ってきたと思います。ほとんどの人がそうだと思いますが、子供の頃は、与えられた環境に支配されていますので、宗教について改めて考える機会もなく、親から特別な教育をされることもなく、何の疑問を持つこともない、日常生活の中で機能しているひとつの慣習そのものでありました。
そんな私ですが、思春期ともなれば、心身の成長に伴った不安定な時期となり、特に心の問題について深く考えるようになりました。どちらかと言うと、内側に思考が向かうタイプでしたので、徹底的に自分自身を追い込むことが多く、幼少期からの親のしつけの厳しさもあと押しし、自己否定感や劣等感が強く、いつもストレスを抱え、いつも緊張感があり、いつも不安に苛まれ、異常な程の神経質で、いつも何かに悩み苦しんでいるような日々でした。当時は若かったし、まだまだ勉強不足であり、経験不足であり、何の糸口も得られない堂々巡りのような状態に、楽になれず、満たされない自分をどうすることもできませんでした。
そして青年期となり、社会に出て多くの人と関わるようになったころ、自分が経験してきた幼少期は、あまりに悲惨で惨めなものであったことに気づかされました。不安定で満たされない幼少期を過ごした私には、何もかもが不足していました。土台も、支えも、安心も、ゆとりもないところからのスタートでした。客観的に、他者との比較ができるようになったことで、今まで見えなかったことがはっきりと見えるようになってくると、それが怒りや絶望に、時には諦めに変わっていきました。憤りを感じながらの生活でしたが、自立していましたので、自分の力で人生を切り開いていくしかありません。どんな状況であっても、生きていくしかありませんでした。
それにも関わらず、社会人としてスタートして2~3年が経った頃、私は病気になりました。何も悪いことはしていなかったし、自分の道を只々一生懸命に歩んでいただけでした。どこを踏み外したのかも全くわかりませんでした。病院に行けば治ると思っていた病気がなかなか良くなりません。それどころか、病院に行けば行くほど病気が悪化していったのです。そして私は廃人のようになりました。働けない状態でしたので職を失いました。お金が入らないので当然貧乏のどん底となりました。そして、毎日のように続く容赦のない病苦に発狂するほどの日々でした。何年たっても治る兆しがありません。どうしたらよいのか分からなかったし、どうすることもできませんでした。あまりの苦しさ故に命を絶とうと本気で考えていました。私の人生はもう終わったと思っていました。
すべてを失い、人生に絶望した時に、私の目の前にあったのは宗教でした。ここまでくると、神仏に頼る以外に方法はありませんでした。信仰にかける以外に方法はありませんでした。なぜこうなったのか。そしてどうすればよくなるのか。とにかく、原因と治療方法を知りたいと思っていました。病院で病気が治らなければ、宗教しかないのです。数多くの宗教と関り、色々な世界を見せていただきました。病気を治したいというよりは、日々の苦しみから逃れたいという一心でした。このような状態であったからこそ、必然的に多くの宗教について関わる機会を得ることができました。もちろん、当時は病気を抱えながらの活動でしたので、かなり苦しかったのを覚えています。とにかく無我夢中でしたし、必死に救いを求めている状態でした。そして結果的に、宗教について多くのことを学ぶことになりました。
信仰心を持ち、宗教に関わることによって、生きるための希望や光を与えられたことは事実です。説明のつかないことに対しての因果を説かれたり、誰も知るはずのない事柄についてズバズバと言い当てられたり、または解決の予見を示されたりすると、確かに何か別次元の世界があることを認識することができました。このようなことがきっかけで、私の信仰心は更に高められ、教義に従うようになっていきました。一生懸命に信仰すること、そして教義を全うすることが、苦しみから逃れる方法であり、幸せへの近道であると思っていました。
しかし、現実は少し違っていたのです。宗教によって説かれることは、私たちが肉体人間として生活をしている現実世界の域を超えたことであったり、生まれてから死ぬまでの限られた時間の概念を超えた話であって、正直なところ、それを実感として理解することはできませんでした。一生懸命信仰し、一生懸命教義に従っているにも関わらず、因果を説かれるだけでは結果が出ないのです。客観的に自分を振り返ってみると、本当に良くなっているのかどうかは分かりませんでした。時には、奇跡的な事柄が起きたりすると、そのことについて、何か別次元の力や働きがあることを感じたりもしましたが、自分自身は、いつまでたってもただの弱い1人の人間であり、組織のひとつの歯車であるだけで成長がないのです。状況が良くならないのは、自分の信仰心のなさであり、そこに努力や頑張りが求められるようになってくると、何だかおかしなことになってきます。
それぞれの宗教の教義の中に、答えを見出せるのならそれでよいと思います。しかし、それは言葉だけの説法であり、現実は何も変わりません。このようなシステムが、ただ永遠に繰り返されるだけで、何となく気持ちを誤魔化しているだけで、前に進んでいるという実感を得ることができません。宗教に選ばれて、教義に縛られてしまうと、そこに自由や主体性がなくなり、他者からコントロールされやすい状況に陥ります。本当に自分の意思や希望が反映されているでしょうか。誰かにコントロールされていないでしょうか。このことについて、よく考えてみることが大切です。本来は信仰心が主体であって、宗教が主体ではありません。あなた自身が宗教を選ぶのであって、宗教に選ばれるわけではありません。
そんなことを考えているうちに、私も壮年期となりました。ここまでくると、自分の人生をある程度総括することができ、様々な状況について想像したり、適切な判断をすることができるようになってきました。幸いにも、ニュートラルな立ち位置を維持することができましたので、多くの試練を乗り越え、たくさん勉強したことが、若年の方々の悩み相談に役立っています。具体的には、宗教との関りについて、誰にも相談できない悩み事がありましたら、カウンセリングをお引き受けいたします。解決策を提示することはできないかもしれませんが、私が経験してきたことを元に、一緒に考えることができると思います。
私自身は、高い信仰心を持っています。しかし、特定の宗教法人に所属し、特定の考え方を持っている人間ではありません。それぞれの宗教について学問的に研究してきたわけでもありませんし、歴史や教義に精通しているわけでもありません。信仰心を育みながらも、それぞれの宗教との関わり方がわからなくなってしまった経験から、その過程に苦しむ人に対しての心の支援を行っていきたいと考えています。宗教とどう関わるべきなのか、そして信仰心をどう育んでいくべきなのかという課題について、どう考え、どう心の整理をしていけばよいかについて共に模索したいと思っています。
どの宗教が良いとか悪いとか。議論や評価をするつもりは全くありません。特定の宗教団体への加入や脱退を支援するものではありません。それぞれの立場の方に、それぞれの環境があることはわかっています。もちろん、物を売ったり、考え方を強制したり、特定の宗教に誘導することなど絶対にありません。多くの宗教と関わってきた、私の個人的な経験に基づいた支援です。すべての人に上手く当てはまるわけでもありません。カウンセリングは行いますが、アドバイスは行いません。悩み苦しみぬいた経験者の話を聞き、どう判断し、どう生かすかは、あなた自身の責任となります。このことだけは理解しておいてください。
最後に、カウンセリングにはある程度のやり取りが必要だと思います。私自身もある程度の時間を割かなければなりません。本当に悩み苦しみ、話をしてみたいという方とだけの関りで良いと思っています。多くの方に対応することは物理的に不可能です。本意ではありませんが、少額の報酬を頂くことで入口にあえてハードルを作っています。お金を得ることが目的ではありません。本当に必要とし、本当に望んでいただける方とだけ、やりとりをさせてください。メールでのカウンセリングを通じ、心のフォローを希望される方のみお待ちしております。ご希望の方は、080-9200-6511(通話はできません)まで、ショートメール(SMS)にて、「信仰相談希望」と書いて「お名前」のみお知らせください。その他の個人情報について公開する必要はありません。詳細について折り返し連絡いたします。
メールカウンセラー SRS